そして扉は開かれた。

この連休中、特に京都でのことを書こうとしたのだけれど、

なかなかまとまらなかった。そして、今をもってしてもまとまらない。


それだけたくさんのことを受け取らせてもらえたからか、

そこからまた今までにない何かが自分の中にエッセンスとして

入り込んできたからか。めまぐるしく自分の中にある

数々の要素と事柄が変化していくせいか。


帰ってきて、「考えることにふけりたい」なんて気もしながら、

納期の迫った仕事があったり、

英会話レッスンの予定があったり、

せっかくのお休みだからこそ会える友人と過ごしたり、

ロケハンに出かけたり・・・、

そんな感じで過ぎていきつつ早1週間。


今振り返っても、Siddさんのエキシビションは、

ただただ、素晴らしかった。

直接訴えかけてくる作品の数々、

法然院という場所、

交わされるコミュニケーション、

そして会場に流れていた空気、エネルギー。

時に圧倒される瞬間もあった、

アートの放つ強烈なエネルギーに。


とても楽しい、美しい時間が過ぎていった。


その一瞬一瞬を味わえるほど

気持ち的に余裕がなかったのが正直なところだけれど、

それでいても、あの時間の中で得たものは、

今のわたしには非常に大きい。


Siddさんが今回のエキシビションにと名付けた

 "The gate is open" 。

わたしの目の前にあったゲートも

どうやら開かれつつあったらしい。


その理解が自分に落ちる瞬間を

大勢の大好きな人たちと共に過ごせたことは、

これからもずっと残っていく気がする。

素敵な機会を本当にありがとうございました。


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自分の中の古くなりつつある考えや、

もうそこに意図がないものを流し始めると、

「へーーー!!!!」と唸りたくなるような

おもしろいお誘いがやってくるから、

これまた一興。


何かが流されていけば、

何かが新たに向うの方から流れてくる。


そんなことを実感していた矢先の京都行き。


現地に行ってみたら、訪れた先々で共に過ごした

人たちや、場から、これからを自分がどう過ごして

いきたいかのヒントをたくさんもらえた気がする。


わたしはやはり、純粋に、これからも、

自分とどう共にあるかを模索する時間と機会を

自分が出会うことができる人たちと共にシェアし続けたい。


そして、そこから、


個人の世界ービジネスの世界ー教育の世界


この3つのわたしが興味を持ち続けている世界というのか

分野というのかが、どこかでクロスオーバーするような

仕掛けをつくってみたい。

そこで「瞑想 - meditation」はとても重要な要素のの

ひとつとなる。


ここ2年ほど温め続けているこのアイデアを

形にすることを、これから始めていきたい。

背中を押してくれる事実は、

サポートしてくれる人たちとすでに出会っていること、

そして出会い続けている、ということ。


いろんな方法や役割がそこにはあるだろうし、

そこに決めつけをしたくない。

自分の内側の声が「おもしろい!」と言ったら、、

飛び込んでチャレンジしてみたい、と思っている。


そして興味のある人たちに一緒に参加してもらえる

形にしたいと思っている。


ようやくその準備ができつつあるな。

そう、My gate has just opened.


外の世界は、昨日も今日も明日もいろんなことが起きる。

その騒がしさが、時には自分を突き動かすことにもなるだろうし、

その騒がしさから、一瞬でもいいから遠ざかりたくもなる。


外の世界に起こることの仕組みや、そのあり方がすぐに変わらなくとも、

自分の中での在り方は、変えたかったらすぐに変えることができる。

そして、変えない選択だってある。


そんなことをこの10年ほど学んできた、そして、

わたしの小さな日々の中の経験に落とし込んできた。


喜怒哀楽が飛び交う日常の中、

わたしは、自分の中に根強く「批判的な自分」を

抱えながら生きている。

これは、10年前に「自分を知ろう」と始めた

オーラソーマに触れたことの功名だろうか。

もうここ10年近く、そんな自分を嫌だと思いながら

共にいる。オーラソーマのとあるトレーニングの中で、

そんな自分を涙ながらに告白したこともあった。

あれはもう一体何年前のことだろう(苦笑)。


裏返せばそれは、

昨今よく目にする「承認欲求」でやつだ。


そして、そんな自分をこの何年もの間、

意識すればするほど、この「癖」の手強さを知る。

わたしの癖ー自分への批判をほかの何かにすり替える。

(言葉にしてみたら、めちゃくちゃ嫌なヤツだ。涙)

こんなことを書くのは、わたしにはちょっとした勇気が

必要だけれど、今はそれができるなと思って書いている。


この「厄介な自分の一部」は、

一生このままわたしの肉体が死ぬときまで、

存在し続けるかもしれないし、

ふと気づいたらいなくなっているかもしれない。

ただ、無理に追い出そうとすることだけは、

しないでおこうと思っている。

その「追い出したいけれどできない」葛藤すら、

味わい尽くしておきたいと、今は、思っている。


そんな中で、最近たった一つ、

「もうやーめた!」と思えたことは、

「どうせ自分のやってることなんてそう簡単には理解されないんだ」

と、


勝手にひとり卑屈になる傾向にある


ということ。どんだけ理解・承認されたいねん、自分(苦笑)。

書いていて心底恥ずかしいし笑ってしまうけれど、

今なら書けるので、自分のために書いておく。


この傾向に自分があることを、もう今すぐやめようと思った。

ずっと、そんな癖をやめたい→やめる!という傾向に

ここのところ向かいつつあった中、

昨今の安保法制の世論の分かれ方だったり、

SNSやネットで目にする二方向への意見の傾き方と

その相対する側を「叩く」感じの風潮。

そこに一種の違和感を感じはじめていたことが、

自分へのダメ押しになった。

でも、きっとまたどこかで、再び自分がそうなる

瞬間がやってくるかもしれない。


その時は、ただ、自分のその時の有り様を、

自分で面倒をみたい。みられる自分でいたい。


なりたい自分ががあったってなくたって、いい。


そして、独りでどうにもならなさそうな時は、

誰かに真摯に助けを乞える自分でいたい、と。

そう思ったか思わないかの矢先に、「助け」は

いつ何時もそこに在るのも、

本当にありがたいわたしの日常。


余談。

今日は偏頭痛がすごくて、さっきまで数時間

横になっている間に、リアルな夢を見た。

自分の死期が近いことを突きつけられる夢。

死期が近づくと目の前にいる人の体の一部が

見えずらくなってくる、という設定の中、

実際に目の前の人の腕や足の一部が見えなくなっていた。

あまりにリアルで、次元は違うけれど現実なのでは、

と起きたあと複雑な気持ちにすらなった。

でも考えれば、生まれた瞬間から死期は

近づいているわけで、そう思えばなんら不思議な

ことではない。

今生、もっといろんな旅をしたい。

そんなことを思った。

大好きなSiddさんの作品の前で。

だいすき大好きCharlieとどスッピンのわたし。

Photo by Satoko Noguchi


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