絵を描くことからわかること
Sidd Murray-Clark氏によるクリエイティブワークショップに
2日間参加してきた。今回は、3日間にわたるクリエイターズコースと、
1日のオープンワークショップという構成。
自分が絵を描くことにどっぷり浸かるのは、2013ー14年を
またいで6日間で開催された前回のクリエイターズコース以来のこと。
このワークショップには、様々な人たちが参加している。
中には、画家をはじめその他アートを通して活動している方たちもいる。
活動とまではいかずとも描いたり、創ったり、踊ったり、奏でたり
することが好きな方たちもたくさん。そして絵を描くこととは
縁遠い生活をしている人ーいわゆる自分ーも参加している。
絵を描くことが好きで、シドさんと共に絵を描きたい!
と自ら志願して参加した小学生にも出会ったことがある。
(彼女は、今ではわたしの大切な友人の一人。)
そう、シドさんのワークショップへの唯一の参加条件は、
ワークショップへの「参加」のコミットメント。
年齢性別職業一切不問。
"絵が描きたい" "絵を描いてみたい"
という自分の要望へ自分が応えることそのもの
ーそれだけがあればいい。
絵を描く行為は、生身の自分を目撃する機会を与えてくれる。
それは一体どういうことかいうと・・・、
筆が進むとき、進まないとき、
絵を近くから見るとき、遠くから眺めているとき、
自分の中に様々な自分を見つけること。
うまく描きたいと思っている自分
うまく描けなくて嫌になる自分
その場から逃げ出したい気持ちになる自分
一心不乱にただただ描く自分(あとから気づく)
失敗が怖いと感じる自分
失敗を恐れずチャレンジしようと思う自分
慣れたやり方で妥協しようとする自分
その'妥協する自分'を非難する自分
隣りの人の素敵な絵にただただ憧れる自分
自分の絵を見て「なかなかいいじゃん!」と思う自分
これらすべて、これまでのワークショップの中で目撃した
「生身のわたし」だ。同時に、ここで見た自分は、
実は、普段の日常の中で、「すでに見た記憶のある」
「すでに馴染みのある」自分ばかりなのだ。
そんな自分を合間なく目撃し続けるからといって、
ワークショップ中は、隣の誰かを捕まえて
自分の気持ちを打ち明けたりすることもなく、
そこにいる全ての人が、自分のスペースとタイミングで、
黙々と紙の上に絵の具を落とし続ける。
ただただ、自分の中から生まれ出ずるものと
向き合う ーーー そんな時間が続いていく。
静かだけれど、ものすごく濃密なエネルギーの流れる空間だ。
英語に'intense'(激しい、強烈な) という言葉があるけれど、
まさにこんな空気感なのでは、と思う。
当たり前だが、1枚として同じ絵はそこにはない。
何かしらの共通なテーマが与えられたとしても。
この当たり前なことを限りなく客観視してみると、
本当に、ひとりひとりが異なった存在だ、と思い知らされるのだ。
そして、とても素敵な絵を描いた人に、そのことを伝えてみると、
「これ、全然好きじゃないんです」と言われたりする。
その逆だってある。わたしも自分のスーパー駄作の絵について
「これいいね」と言ってもらえたことがある。信じられなかった。
その感じ方の相違にすら驚く。描くものだけに限らず、
受け取り方すらも違うのだ。これも当たり前のことだけれど。
でもこの「当たり前」は、いつしかわたしたちの
「無意識」という忘却の彼方へと葬り去られている。
「当たり前」だと思うことほど、無意識の世界に招かれてしまう。
すると途端に、自分と自分以外の誰かが違うことは、
「当たり前」ではなくなってしまうのだ。
あたかも自分はこの世からたった独り取り残されたような感覚が
やってきたりするけれど、それは違う。
自分以外のすべての人が、自分とはまるで敵味方のような感覚が
やってきたりするけれど、それも違う。
自分と全く同じ人がいない、という事実でしかない。
その事実を単に事実として受け止めたて、いつもの現実を
見た時に、自分の目の前に見える現実は、また違った色を
放つはずだ。きっと見えてくる色も鮮やかに数多くなるだろう。
これはつまり「自分自身のあり方」のテーマだとわたしは理解している。
自分のあり方を知りたい時、自分独りで知ることは非常に難しい。
だから、普段関わっている人や自分が見聞きしているモノゴトが
存在として媒介として必要になるのだ。
わたしたちは常にそういったヒトモノコトに自分のあり方を
映し出して、見たり感じているにすぎない。
これがいわゆる「投影」ってやつだ。
そして「投影」は「悪」ではない。
人間は「投影」をして存在する生物なのだと思う。
そしてわたしたちの内に秘めている世界は、
こんなにも美しい。
その美しさを自らのアウトプットとして見て取れるのは、
シドさんが「絵を描くーペインティング」という方法を採用して
提案しているからだ。
描いた人は、自分のアウトプットを鏡のように見ることができる。
それは美しいときもあれば、そうでないときもあるかもしれない。
でもただそれは自分から生まれ出た唯一無二の何かでしかない。
そして、シドさんの「提案の仕方」のひとつひとつに、
彼のプロフェッショナリズムがある。
絵を描く時に添えられる手順の説明、
絵を描く前後で提案してくれる瞑想的なアクティビティー、
ひとりひとりを見ながら、何気なくかけられる言葉や動作、
それらすべてに。
そしてこれらすべてひとつひとつが、
彼の創造性(クリエイティヴィティー)そのものである。
このことをわたしは強調しなくてはならない。
自分(存在ー魂ーエネルギークリエイティビティー)と
どのようにして共にあるのか。
この根源的なテーマについて投げかけてくるシドさんのワークショップは、
メソッド学習や、ヒーリングセッションではない。
結果として自分にとってそうなり得ることはあるが、
シドさんのインテンション(意図)ではないことが確実にわかる。
だから、わたしも含め受けた人の受ける衝撃は少なくない。
そしてその「衝撃」から新たなプロセスが始まるのだ。
今日はここまで書いておくことにしよう。
きっと・・・、つづく。
11月に愛知県・南知多で2日間のワークショップ開催します。
詳細はこちらへ。参加者受付中です。
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