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組織の中にあるシンプルな答え

連休最終日は雨。この2日間は書類仕事をマイペースでこなす。明日から週一杯京都滞在ということもあり、済ませて起きたかった報告書作成。それも無事に完遂して、心置きなく荷造りができる。がしかし、明日京都入りできるのか?**********7月から委託されていた組織プロジェクトの仕事が一通りの終わりへと辿り着いた。今回は、全体で約15名ほどのチームを対象に、組織活性化と名付けて進めてきたもの。事前調査から始まり、2度にわたる全体のセッション、途中、管理職対象のセッションを挟み、最後はチームディスカッションで、実際の課題について終日かけて意見を交わす機会を演出した。これまで、階層別の対象者に向けてのはたらきかけが圧倒的に多かった中、今回のような、今年度の新卒から20年来の経営者幹部までが混在するチームを対象にできる機会は珍しく、全てにおいて「実験」だったに等しい。ありがたい機会だった。わたしは、今回のケースにおいて、これまでになく「家族の座」を学びだしてよかったと思えた。まだまだ学びの道半のため、ワークとしてアプローチを選択したわけではないのだが、この心理療法の基になっている「現象学」の考え方が、今回のクライアントを観察する上で、非常に役立ったことを強調したい。今回のクライアントだけでなく全ての組織において言えることは、様々な視点・視座を持った複数の人間が、1つの同じ事柄や出来事を認識している、というまぎれもない事実だ。しかも、それぞれ固有の視点や視座で。その結果、誰もが望まなかったであろう認識の違いや温度差みたいなものが、その複数の人間の間には、結果生じてしまう。これは、致し方のないことなのだ。組織というある種の定められた秩序の中で、この認識の相違や温度差が課題となる場合、その解決策はたった一つで、いかに相互が歩み寄り、理解を深めることができるかに、尽きるのではないだろうか。組織コンサルティングという今の仕事をしながら、いつも結果的に辿り着くシンプルな答えが、これだ。そのような相互理解が乏しいときには、強烈なリーダーシップが必要となる。がしかし、ときに強烈なリーダーシップは、組織内の人々から「考える機会」を奪ってしまいかねないので、最終的な解決策にはなり得ず、この時代にはそろそろそぐわなくなってきていることも事実であろう。先に書いた「家族の座」の方法論の真髄は、わたしに今回のクライアント案件で、彼らの中に具体的にどんなことが起きているかを見つめ観察するときに、前提を強く持たず、ただその場に起きたことをただ見つめ受け取るという概念をもたらしてくれる。そして、関わる相手をまず「尊重する」ことが、いかに大切な要素であるか、ということを、今回のような事例を通して体感する。組織において、犯人探しと犯人叩きは、その結果として生み出すものが、あまりにも少な過ぎるのと非効率な作業であることに違いない、とわたしは思う。一方で、ガバナンス、コンプライアンス、給与のための評価、、、といった一定のジャッジが必要なことも事実である。そうであるが故に、組織の中で他者をジャッジする役割を担う人ほど、己を客観的に知ってほしい、と強く思う。もっと正確に言うと、自分の思考と言動の基盤になっているパターンや思い込み知って欲しい、と。そうでなければ、ジャッジする人の根底にある、本人すら無自覚なパターンと思い込み次第で、そのジャッジが、組織のためではなく、自分の奥底にある満たされないものを満たすことに使われてしまう可能性が大いにあることを知っておいて欲しい、と常々思う。どんな組織と対峙した時も、これは、痛烈に感じることなのだ。では、ジャッジをする役割を担う人とは、一体誰なのだろう?すべての経営者すべての代表者すべての管理・監督職すべての人事・教育担当者すべての教師職といったあたりだろうか。来月開催する「家族の座」のリトリートは、すべての人のためであり、ここに挙げた人たちにも届いて欲しい、と願って企画したものでもある。この、組織や人間関係においてわたしがとても重宝している方法論については、明日へつづく。。。

夏なつナツnatsu此処夏

Unicaで出会ったAlohaさんの雲母。キラキラグリッター感と繊細な層の連なりがたまらないのです。* * *朝からしょーもないタイトルですが。名古屋の湿度の高い夏、始まっております。この早朝だけが快適アワー。今朝は梅雨明け前から蝉も鳴いております。てことは梅雨明けか?!選挙、今日にも期日前投票に行く。誰に、がようやく決まり、これまでになく考えた選挙。そして、やはり、ネガキャンペーンは、好きになれんのです。強いメッセージにしたいがために、そうせざるをえないのだとしたら、そうでないやり方をする人の話を聴きたい、と思う。そこからしか本当の意が汲み取れない気がしてならないから。そして、選挙に限らず、無法sns地帯での様々なネガキャンペーンに辟易としてきた今日この頃。個人ブログなんかも時に考えものだと思わされるものに遭遇する。〜〜しないと◯◯になると脅すくらいなら〜〜すると◇◇になれる(かも)と書きたい。もしそんなテーマがあれば。自分の意見の正しさを伝えたい時他の誰かの意見やはたまた尊厳までをも落とし込めて伝えようとするものに真意を見出すのはもはや難しい。とわたしは思うようになった。これすらもネガキャンペーンかしら。苦笑せっかく「考える」という機能を授かったのだから使おうではないか。情報の取捨選択に、これからの自分と社会の在り方に。

自分回帰の旅:札幌ー名古屋ー京都

6月に入った。3日前からここ京都に仕事でお邪魔している。先週は、札幌で週末前半を過ごし、後半を名古屋で過ごしてからのイマココ。体温調整が追い付かない感じ。京都は、昼夜の寒暖差が激しくて、札幌に防寒用に持って行った服がここで朝晩大活躍だ。札幌では出番少なかったのにねえ。ここ京都では、メキシコから毎年この十数年来日している心理占星学のザビエ・ベトコートさんの京都での個人セッションとワークショップの通訳としてお仕事をさせていただいている。先の画像は、先斗町界隈を歩くザビエさんと、彼を京都に召喚しているStar Poets Galleryの今村仁美さん。昨日で無事にセッションの全日程が終了し、今日は中休みをいただいて、ホッと一息をついているが、明日からは、緊張のワークショップだ。前回秋は1日だったけれど、今回は次へのステップが準備されていて、土日連続で開催される。考えただけで、おかしい種類のアドレナリンが脳内で生成されている気すらする。そのくらい緊張が走る、ということを言いたかった。散々Facebookなどにザビエさんの素晴らしさは書いているが、それでも書き足りない。私は2009年あたりからお世話になっているだろうか。年に1度、セッションを受けてきた。彼が私の出生チャートを見て伝えてくれることは、なかなか占星術の本などでは見受けられない視点からのものだ。でもそこでの理論を占星学のベーシックを持って、説明をしてくれるので、結果とても腑に落ちる。・・・と理解できるようになったのも実はまだつい最近のことかもしれない。そして、毎年毎年、ザビエさんとの時間からもたらされる情報に深みが増しているのも強く感じる。今生、地球上に人としての生を自身の選択としてもたらすことを決めたからここにいると仮定した時、どんな生の設定をしてきたのかを、出生チャートを見ながらザビエさんの視点で解説してくれるのだが、その時に自分がどんな人生のプロセスにいるか、その人が何を大切にしているのか、といった要素を常に大切にしながら伝えてくれる彼の姿勢に、ただただ感動する。目の前の人が、今よりも幸せになるために、というフォーカスが彼の中にあるのがとてもよくわかるのだ。その瞬間を、毎回クライアントと接する彼を通して、そして、通訳という貴重な役割を通して立ち会えるという、特権かもしれない。本当にありがたいと思っている。明日から二日間、ワークショップが開催されるのだが、このワークショップでのザビエさんのテンションと放つエネルギーがこれまたすごい。私は勝手に「歩くボルテックス」と名付けた。事実ほど奇なり。ワークショップで通訳をしている間の記憶が前回はほとんど残らないくらいの集中力を要された。すなわち私がまだまだ未熟なわけではあるのだが、High Energy とはまさにこのことなのでは、という稀有な体験を前回しただけに、今回もそういう意味において緊張が高まる。無事に役割を果たせますように・・・(懇願)

今日から東京に行くその理由

ここ数ヶ月の間、集中して学んでいる 、ドイツ生まれの心理療法「家族の座〜Family Constellation」。今日もこれからそのトレーニングに参加するために東京へ向かっている。このワーク、その文字通り、家族間の関係性にある客観的事実を観察する機会を得られる。そして、それは単に家族だけでなく、ありとあらゆる関係性にはたらきかけられるので、その汎用性は広い、とわたしは思っている。わたしがこのワークに興味を持った理由は、一昨年冬に初めて参加したワークショップの中で、組織における関係性を扱った例に遭遇したからだった。具体的なことは守秘義務上書けないので、端的に書くと、組織における人間関係が起因して起こる問題ですら、構成する人たち各々の「家族」というバックボーンが大きな影響をもたらしているという具体的な事例を見せてもらった。わたし自身、管理職を経験した身なので、このことは、当時関わった人たちがその時々に抱えていた課題に膝を突き合わせて話し合う機会を何度も得た中で、垣間見えていたことだった。当時、在職中に学んでいたオーラソーマで学びかつ体験したことが、そうした機会に立ち会うことに非常に大きな助けにもなっていたのも事実。がしかし、「家族」という根源的かつ非常に個人的なテーマについて、単に上司と部下という間柄で触れていくのは、わたしにとってハードルの高いことだった、と当時を振り返ってそう思う。そして、その「家族」のテーマに根本的な因子となる何かがあるのが目の前の人たちに間見えていただけに、当時辛そうにしていた彼らを見ながらよくある種のジレンマを感じたものだ。なんの助けにもなれない、というジレンマ。今となっては、そのジレンマが自分のエゴの一部だったと理解している。そんなこんなで、出逢ったのがこの「家族の座」という方法論だった。これまで観てきた数々の事例に同じものは一つとしてない。家族の数だけ、異なるケースが存在する。そして、観察する側に、何が良くて悪い、というジャッジ的見解なんてものをいとも簡単に超えさせてしまうほどの、愛のリアル劇場しかそこには存在しない。そして、それまで自分の中にあった、「家族」という集団に対する常識と非常識が吹き飛ばされていった。自分が所属する家族しか知らないが故の常識と非常識。とても小さなくくりの中に自分がいたことが解る。

高尾での時間

先週は、絵を描いた週末だった。金土は、シドさんのCreative Vision for Lifeクリエイターズコース by Unicaで、日曜日は、ハマダヨーコさん定例クラスで。ここのところ、日食前あたりから、いつになくモヤっとしていた。モヤ程度じゃないかな、ダウナーdownerな感じ。かといってジタバタしてもしょうがないってことはこれまで学習してるから、そんな自分を観察したり、放っておいたりした。日食ー新月の日あたり、かなり重々しかった。久々な感じで。理由を挙げようと思えばなんとなーく挙がるけど、どれをとっても特別なことは、ない。日々考えていることだったりするから。なんだかスカっとしないなあ〜と思うタイミングでの、クリエイターズコースだった。ありがたいと思った。そして案の定、描いても描いても葛藤がやってくるんですわ・・・まったくもって素敵じゃない(いつもに増してひどい)なんでこの色にしたんだろう(どの色もしっくりこない)またいつものパターンだなあ(好きなんだろうけど、他に方法ないの?)・・・そんな自分の心の声に隅の方に追い詰められる感じがしたり、嫌になりそうになったり、ひとりやさぐれ感満載で、フガフガしていた初日。外は静かに雨が降っていた。今回は、ヘルパーとしての役目があったことが、そんな声から一瞬離れることに一役買ってくれた。初日が終わって、なんだか気もそぞろ。同部屋の素敵女子のエンタメ最高だった。そして好きじゃない1枚目の絵がどうにも脳裏をチラつく。寝つきも若干遅めだった。目が覚めたらすでに朝だった翌日。晴れてはいないが、雨は止んでいた。2日目は、外を歩いてみることから。独りでポツポツ歩き出す。そういえば誰ともすれ違わなかった。会場のおおるりの家の庭園から山へと続く遊歩道を歩きながら、芽の出始めている木々の枝が目につく。

応答するとういこと。

White board art by Sidd Murray-Clark  Creators Course, Enoshima in 2013この写真は、2013年に開催された画家・シドさんによる年に1度開催されているワークショップ「クリエイターズコース」の会場のホワイトボードにボード用のペンでシドさんが描いていた絵。シドさんがボードに向かって描いている姿を遠目に見ながら、自分の画用紙に向かって悶々としていたことを思い出す。あの2日間は、画用紙に向かう時間はずっと悶々していた気がする。そして、来週末から東京・高尾山で、今年の「クリエイターズコース」の3日間がはじまる。久しぶりにどっぷり参加者として参加する。楽しみだけれどちょっとした緊張感もある。ワークショップでは、絵を描くわけだが、この「絵を描く」という行為がわたしにもたらす楽しさであり、緊張にもなりうることの一つは、自分の中から何が飛び出してくるのか、その場になってみないとわからないということだ。その場の、しかも、瞬間瞬間 --- moment to moment --- に、片手に筆を持った「自分」という存在とがっぷり四つを組んでいるわけで、楽しくノリノリで描いている自分だけでなく、そこから逃げたくなる自分ですらも自分で目撃してしまう!という、最早これは醍醐味!とでも言えるだろうか。このとてもシンプルだけれど強烈な体験は、よくよく自分の日常を振り返ってみれば、その中の小さな瞬間に実はいつも起こっていることだ。そのことをシドさんは、いつも、いつも、伝えていた。とてもハッキリと分かりやすい言葉で。それでもわたしは気づけないでいた。一体なぜその「日常の小さな瞬間に起きている」ということを気づけないでいたか。それは単に自分の外側で起きていることに、---例えば、 ---自分の家族や家族との状況に起こることに、 ---職場で自分の目の前の人や状況に起こることに、 ---関係性を持っている相手や状況に起こることに、日常のありとあらゆる種類の「起こることへの自分の咄嗟の反応」ではなく、「起こることそのもの」に自分の意識が奪われすぎていたからだ。要は自分が無意識に反応していた、ということにずっと気づいていなかった。・・・ということが、わたしには後からわかった。・・・それも大分時間が経ってからのことだった。

そして扉は開かれた。

この連休中、特に京都でのことを書こうとしたのだけれど、なかなかまとまらなかった。そして、今をもってしてもまとまらない。それだけたくさんのことを受け取らせてもらえたからか、そこからまた今までにない何かが自分の中にエッセンスとして入り込んできたからか。めまぐるしく自分の中にある数々の要素と事柄が変化していくせいか。帰ってきて、「考えることにふけりたい」なんて気もしながら、納期の迫った仕事があったり、英会話レッスンの予定があったり、せっかくのお休みだからこそ会える友人と過ごしたり、ロケハンに出かけたり・・・、そんな感じで過ぎていきつつ早1週間。今振り返っても、Siddさんのエキシビションは、ただただ、素晴らしかった。直接訴えかけてくる作品の数々、法然院という場所、交わされるコミュニケーション、そして会場に流れていた空気、エネルギー。時に圧倒される瞬間もあった、アートの放つ強烈なエネルギーに。とても楽しい、美しい時間が過ぎていった。その一瞬一瞬を味わえるほど気持ち的に余裕がなかったのが正直なところだけれど、それでいても、あの時間の中で得たものは、今のわたしには非常に大きい。Siddさんが今回のエキシビションにと名付けた "The gate is open" 。わたしの目の前にあったゲートもどうやら開かれつつあったらしい。その理解が自分に落ちる瞬間を大勢の大好きな人たちと共に過ごせたことは、これからもずっと残っていく気がする。